vol.4チームでデザインする
大久保 航也 さん('22卒 / 六カ所エンジニアリング株式会社

ー 4年間、デザインを学んで発見したことは

自分は見ての通り、大学では硬式野球部に所属してました。
感性デザイン学科はスポーツ特待生など、体育会の部活に所属する学生は多くないんですが、4年間 大学でデザインを学んで、野球も続けてきて、そのどっちにも共通しているのは、やっぱり「チームでやること」です。成果を出すためには個人の努力もさることながら、チームでやるのが面白いし大切だと改めて感じています。
八工大では、いろいろな人と関わってチームで動く、そんな経験をたくさん積めたと思っています。

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大久保さんの「絵画Ⅱ」での授業作品(アクリル)

ー デザインとの出会いは?

自分は小学校で野球を始め、その後、硬式野球に進みました。中学時代は陸上競技にも取り組み、岩手県大会の駅伝で優勝しました。当時は身体も細かったんです(笑)。他にもバスケとか、スポーツ全般が好きです。高校は野球で強豪の八戸工業大学第一高校が、寮もあって野球に専念できると思い入学し、筋力や体重をつける野球選手としての体づくりをしてきました。

ただ、中学は地元の久慈市内でも不便な場所にある小規模校だったので、スポーツ以外に生徒全員でいろいろな活動に取り組まなければならず、体育祭の大きな看板をつくるなどして、絵を描いたりものをつくることの楽しさを経験しています。また、高校は工業科建築コースだったんで、工具の使い方、製図やデッサンみたいなことも教わり、なんとなくデザインは意識していました。

では、やっぱり進学するなら感性デザインと決めてた?

あ、いや… 本当のことを言うと、八工大は第一志望ではなかったんです。

高校の野球部では一応、最後の夏の大会でベンチ入りしていたことで、まずまずの評価はされていたので、関東あたりの大学に進学しようと思っていました。でも、附属高校からは入学金の免除があるなどいろいろな理由で…八工大は第二志望でした。また、デザインへの興味より、野球を続けることの方が意味が大きかったんで、工学部より学費も安いし留年さえしなければいいや、というくらいでした。


『本気でやる』って、カッコ悪いことじゃない。


ー 大学の硬式野球部での活動や実績は

野球を続けるために入学したとは言っても、はじめはやっぱり第一志望ではなかったんで、何と言うか… 意識が低いと言うか、今になって思えば、不貞腐れて愚痴ばかりであまりやる気があるって感じではなかったと思います。チームも、1年の頃はまあまあ悪くはなかったものの、その後、東北大学野球1部リーグから2部リーグに降格して、ただ、その頃から自分の力でチームを1部に戻そう、とか、少しやる気にスイッチが入った感じになりました。
4年の引退までに、残念ながら1部リーグに戻ることはできませんでしたが、2部リーグでは優勝し、他大学からも一目置かれるバッターとして個人の成績も残し、うまく後輩に襷を渡せたと思います。

ー 体育会の部活動とデザインの勉強の両立は

自分ではあまり大変だと思っていませんでした。
製図をやったりデッサンをしたり、多少は経験があったので、また、小説とか文章を読むこと、数学や物理なんかも好きだった方です。普段、部活がないときは車やバイクをいじったり釣りの道具を手入れしたり、なんだかんだで工作も好きなんで、あまり苦労らしい苦労をしなくても、単位は取れる、まあ1番を目指すわけじゃなければ楽勝、みたいな感じで手を抜いてました。

けれど、部活もデザインも、どっちもズルズルと後退していく感じがして、このままじゃマズイぞ…、本気にならないとカッコ悪いな、と、2年生の終わりくらいから危機感を持つようになりました。

ターニングポイントは何だった

きっかけは野球部です。
なんて言うか、本気でやるっていうのを、ちょっとカッコ悪いと思う時期ってあるじゃないですか、それが過ぎると、むしろ本気でやっていなかったことを恥ずかしく思うような… そういう変化がありました。
自分が4番としてしっかりと結果を出せばチームは飛躍する、よし、頑張ろうと思って、しかし、結果を出すためには努力も必要。だからほぼ毎日、自主練を続けていました。監督や先輩が見ている前だけ頑張るんじゃなく、見ていないところでも、自分でしっかりと考えて、根性で量をこなすのではなく、効率や改善すべきポイントなどを冷静に分析しながら、その成果を試合で試し、また練習を工夫するようにして…と、デザインで言うPDCAサイクルのように、合理的に結果を出せる野球への取り組み方を考えるようになって、意識が変わっていきました。

野球部での経験はデザインに活かされた

野球部でコンスタントに結果が出るようになったんですが、同時に怪我をして少し休養が必要になり、ちょうどそのくらいの時期からゼミでの活動が始まりました。ゼミの先輩たちが空き家のリノベーションなどアクティブに活動していて、先輩との交流が深まっていく中で、何か、チームのようなそういう空気感を自分の中でゼミに感じるようになっていました。
その後、先輩の卒業研究を手伝いながらいろいろ学ばせてもらい、4年生になって…と言う頃、長く続けてきた野球の考え方からデザインプロジェクトをやってみればいいよ、と先生のアドバイスもあって、自分なりにデザインと野球の共通性を考え始めました。

野球は、個人がどれだけすごくても、チームとしての総合力がなければ試合での勝利には結びつきません。
はじめは自分一人だけでも成果が出さればいいと驕った気持ちでいましたが、怪我の経験もあり、本当の意味で結果を出すには、チーム全体の意識改革が重要でした。
デザインのプロジェクトも、誰かすごいヤツがいればうまくいくのではなく、それぞれに適切な役割を持つべきです。そういった考えから、まちづくりの活動をデザインしていく中で、この役割は誰に頼んだらいいか、あいつには何をやってもらおうか、で、自分は何をすべきか、と野球での経験に例えながら卒業研究を実行していきました。

卒業研究について教えてください。

卒業研究は、岩手県山田町で、東日本大震災後に建設された高さ約7m・長さ約200mの防潮堤に壁画を制作するプロジェクトを行いました。
このプロジェクトは、野球部でもマネージャーをやっていたゼミの先輩が行った調査を下敷きにして活動を始めたもので、自分自身も岩手県久慈市で被災した経験があることから、震災復興について考えてみたいと思っていました。また、岩手県山田町には野球部でも地域の子供たちに向けた野球教室などで何度か訪れていたので、思い入れもありました。
大学で説明会をやって参加者を募り、壁画の原画制作を美術研究部に頼んだり、自分だけではできないことを、いろいろな人の力を借りながら実現していこうと進める中で、このプロジェクトがなければ話すようにならなかった人たちとも仲が良くなれたのが嬉しくて、とにかく、自分にとっては貴重で、野球以外のことでこんなに本気になったのは初めてでした。
現場での制作はもちろんのこと、ドキュメント映像の撮影・編集や模型制作まで、同級生や後輩たち、それに先生方、そして地域の方々にもたくさんの協力や手助けをしていただき、プロジェクトリーダーとして、野球で経験した以上に多くの人との関わりをつくることができました。

プロジェクトは1年で終了ではなく、壁画の完成に向けて何年か継続していき、最終的には山田町の人たち自らの手で活動としてずっと続いていくことを目指しています。

卒業研究:岩手県山田町での制作現場の様子(2021年8月)

卒業研究:岩手県山田町での制作現場の様子(2021年12月)

4年間を振り返って…

卒業研究も野球部の最後の試合の時でも、あと一歩で、あともう少しで、と、悔しく思ったことが多いです。自分の不甲斐なさに一緒にやってくれた仲間が嫌な思いをしてしいないか…など、なぜもっと早く「頑張る」ことをしなかったのか、未練はありますね。
ただ、本当にいい先輩に恵まれ、また頼もしい後輩たちにも助けられました。
就職も一番の志望理由は尊敬する先輩が入社していることで、そういった安心感から平常心を保って就職活動ができましたし、卒業研究も部活も優秀な後輩たちがいました。
4年間、自分自身でもそれなりに努力はしてきましたが、それだけでは足りないこともあると分かり、カッコつけて自分で全部やろうとするより、周りの人を信じて頼ってもいいんだと強く気付かされたのも事実です。やっぱり、チームで、みんなでお互いの良いところを出し合いながらやっていくのが、最終的には一番良い結果につながります。人との繋がり、チームワークが大切だな、と、あらためて感じました。

部活デザインを分けて、どちらか取捨選択しようとしていた時期もあったけど、最後、結局はどっちも本気で取り組んだから楽しく、いや、本気になったからどちらも多くの人が関わってくれて楽しかったのかもしれません。大学でもスポーツを続けたい高校生に向けて、自分の経験が少しでも参考になってくれたら嬉しいです。

卒業後も、仕事で地域に関わり、また、社会人野球や子供たちの指導者として野球も続けていきます。今度は自分が、多くの人に頼ってもらえるように成長していきたいです。

卒業研究:岩手県山田町での制作現場で原画をチェックする大久保さん(2021年7月)

大久保 航也 さん
岩手県久慈市出身
青森八戸工業大学第一高等学校 卒業
2018年 八戸工業大学感性デザイン学部 入学 / 2022年 卒業