東北の花の季節は世間の春に比べればずっと遅い。
4月になっても雪は降り、梅や桜、桃や林檎の花が咲いて華やいで来るのは、世間がとっくに春を終えた頃である。
だから、春の景色は、雪。
冬の雪とは少し違う、その変化に春を感じ始めるようになる。
雪を割るようにして草が芽吹き、少し遅れて木々の緑が目立ち始める。そうなると、地面には小さな花が顔を出し、そして道や山の木々が一斉に明るい色へとうつりかわれば、花々が一瞬のうちに咲き揃う。
春の景色の変化は急速で、花が咲くまでが私たちにとっての「春」なのだと感じる。ものごとの始まりとなるさまざまな環境の変化が起き、その変化に適応してようやく平静なこころへと戻れるようになる頃には、もう花が散り春はいつの間にか通り過ぎてしまっている。
春の始まりは静かな雪、そしてせわしない日々の始まりと一緒に慌ただしく花々が咲いてしまい、気づくと雪の気配がなくなり、あの長かった冬をずいぶん前のことのように思い返す。
今年の春はこれまでとは変わってしまった。
人と出会い、触れ合うことが始まる季節の中で、私たちは他人との距離を気にして遠ざけるようにしなければならなくなった。
世界的な危機と聞いてもリアリティに欠けてしまいがちだが、それでも訪れる情報が私たちを徐々に不安に包む。ひとりになって、その先の行方がどうなるのか分からないことで立ちすくんでしまいそうになるが、考えてみれば、それはいつどんな時であっても、春になれば必ず私たちはひとりひとりで新しいことを始めなければならないのであって、いつの春でも、不安な気持ちが混ざるのは同じである。
乾いた雪が冬の始まりを告げ、冬の寒さは終わることなく、湿った雪に春を感じる。そして花々が競うように咲き誇れば、冬も春も終わっている。
ものごとの小ささや大きさは違っても、何度でもこのうつりかわりを繰り返すことは同じ。私たちも変化し続け、そのことはどんな時でも変わらない。
この冬は記録的な暖冬だったが、それでも八戸の海の水は冷たく、その冷たさが、豊かな海の資源を育てている。
食はヒトの本能的なもので、食と地域は密接である。よって、食に関わる産業の発達は地域の文化に直結する。しかし、食物を摂取する行為そのもののビジュアルは洗練されたスタイリッシュなものばかりではなく、ある種のグロテスクさもつきまとう。それを食べられるものと認識して口に入れるには勇気がいるものもあるように、美しくスタイリッシュなだけでは、ヒトの生活も文化も、ともすればデザインも成立しなかった。
デザインする、ということは、そのようなグロテスクさを美しさへと変換するための方法のように思えるが、しかし八戸という都市にいると、それが正解ではないと感じてしまう。
八戸の新鮮な魚介類は、他のどこの港で水揚げされるものよりも味わい深い。特産である烏賊(イカ)の刺身は甘みがあり、手の込んだ料理に仕立ててしまうのはむしろもったいないと感じられる。
その実、手の込んだ料理は、ともすれば新鮮でないものをどのように美味しくいただくか、という課題に対するデザイン的な提案なのである。
しかし同時に、もしも新鮮であるならば、それはそのまま食べるのがよろしい、という回答も返ってくる。
美しく手の込んだものに、スタイリッシュに洗練させて、と、そのようなベクトルでのものごとを行うのがデザインのように思われるが、むしろ余計な価値観を取り除き、より根源的に、そしてより直感的に、といったプリミティブな視点もまた、デザインには必要なことがわかる。
港で箱一杯に入れられた烏賊の肌のなめらかなツヤを見ると、これはこれで十分に美しく、形や姿を変えないありのままをどのように伝えるのか、そのことの方がむしろ難しいと感じられるのだ。
漁業には、沿岸・沖合・遠洋の異なる海域で魚などを捕獲するものと、養殖を行うものとの2つに大別できる。
養殖を行う漁業は、農業・林業に似て、先行投資を行うことで漁獲量を増やすことが不可能ではないが、さまざまな海域で捕獲を行う漁業は、より投機的なもので、地球的規模での変化が漁獲量に大きく影響を与える。
そのありのままの海の恩恵をこれから先も得ていくために、目の前のできごとだけではない遠くの見えないものごとにも想像力を働かせなければならない。
もともと釣りは趣味のひとつだったが、八戸市とその周辺に関するデザイン提案という課題のもと、釣りを通じて日頃感じている地域の環境について気付きをもたらすための制作をしようと考えた。
釣りをすることは環境だけでなく、自治体などの管理や整備の計画とも密接に関わっている。河川の管理は国・県・市などそれぞれに異なり、また、調査の過程で、漁業組合などの地域でルールを定め河川利用をしている場所とそうでない場所とで、川の水の淀みや流量の増減に大きな差があることが分かった。管理され過ぎた場所や人が頻繁に利用する場所は環境が悪く、しかし、まったく河川利用されていない場所は天候により水量が激しく変化してしまうなどの理由で、決して環境が良いとは言えなかった。
川と人が程よい距離感で関係しあうことが、その河川の環境を維持していくために必要なことであると考え、そのことをルアーというプロダクトに変換した。
ルアーは釣具店に行かなければ購入できないが、そもそも釣りに興味がなければルアーを眺めることはないだろう。制作したルアーは、それぞれに、わずかに大きさも形も違うことで、沈み方も浮き方も異なり、地域の川の微妙な違いを表す。これらルアーを街なかで展示したことにより、そのカタチの造形性や塗装の美しさで、釣りをすること、つまりは河川と関わりを持つことへ見る人の意識を向けさせる。
Creator
中村 緑夢 Gurimu Nakamura
フラットデザインの先へ
【ざっくり言うと...】
・デジタルイラストレーションにおける近年の傾向
・デザインツールの一般化とグラフィックの標準化
・空間表現の発展の美術史的な経緯
「アイソメトリック」と聞いてトレーニング方法のことを真っ先に思い出してしまうとしたら、それはスポーツ科学に何らか関わったことがある人かもしれない。
トレーニング方法の「アイソメトリック」は、たとえば壁など動かないものを押し続けるような動作により、筋収縮を伴わずに特定の部位だけに最大負荷をかけることである。対して、腕立て伏せのような自重や器具を使うなどし、筋収縮を伴う動きのあるトレーニングを「アイソトニック(等張性)」と呼ぶ。「アイソメトリック」は負荷は可変だが、筋繊維の伸縮の値はゼロとなり、「アイソトニック」の場合は負荷は一定(30kgのダンベルを持って行えば負荷は30kgのまま)だが、筋繊維は動きを伴い伸縮するので可変である。そう言えば、かつてポカリスエットの広告では「アイソトニックイオンウォーター」と言っていたのだが、この場合は、体液とほぼ等しい浸透圧(等張性)のスポーツドリンクであることを語っていた。
この脳筋的な話題は余談でしかないが、イラストレーションにおける「アイソメトリック」は、パースペクティブ(遠近法)を表現する際の『等角投影図方』である。
「アイソメトリック・イラストレーション」は、対象のパースペクティブを単純化して表す方法(具体的な方法は後述)で、主に建築分野における平面図を立体視して表すために用いられてきた。
設計士は平面的な図面を見るだけでも、経験上、完成予想図が脳内でイメージできるだろう。しかしクライアントにそれが伝わるかどうか分からない。その時、シンプルな遠近法を用いて立体視したイラストを添えれば伝わりやすさは数倍に跳ね上がる。
この平面図から立体図へ、少し言い換えると、平面図から空間の鳥瞰図へ、という転換が、「アイソメトリック・イラストレーション」の根幹となる基準であり、それは描画プロセスの大きな道筋ともなっている。
これらを踏まえ「アイソメトリック・イラストレーション」の描画とイラストレーションの変遷について解説する。
デジタルイラストレーションの潮流は、webデザインやディスプレイの発展に伴い多様に変化してきた。やや複雑に言えば、表示できる媒体の制限によって多様な形態を取ってきた。ファミコン、スーパーファミコン世代には、モニターで表示可能な色数が制限されていた頃のいわゆる「ドット絵」を懐かしく感じるだろう。
ディスプレイは現実に等しく高精細な画像をいかに再現することができるか、という再現性に重きを置いて開発が進められてきたが、webにおいても、オフセット印刷のような高精細な画像やグラビア印刷のような鮮やかな画像をいかに素早く表示(通信)できるか、という課題が存在し、それが通信方法やデータ圧縮技術の革新を促した。
しかし、今日においてそれら状況は一部で逆転している。
たとえば、デジタルなディスプレイで表示する画像の方が 、紙など平面媒体へのアナログな印刷物よりも高精細かつ高彩度で表現(再現ではない)することができるようになった。時代はイメージを再現するというひとつのミッションをクリアし、再現を通り越しいかにイメージを演出・表現するか、といった潮流が到来している。
車の外観のデザインが四角い無骨なものから流線的なものへと変化したことの背景には、金属加工技術の発展もあるが、流線的な造形にすることで流体抵抗の削減による高速化を実現し、さらに副産物的に燃費向上も期待できる。だが、その流線的で曲線を多用する形態に未来感を覚えることも、カーデザインの変遷と無関係ではない。数十回もウレタンでコーティング(塗装の意図は本来は金属の防錆と空気抵抗の削減だが)された表面もあいまって、流線型で有機的なフォルムは、固体による金属的重量感とは違う、液体金属的な無機質さも共存させ未来感を強める。
デジタルイラストレーションでも、有機的、すなわち緻密な情報量の集積に対して、単純化された形態と単色での均質な塗りつぶしが、無機質さの同居した未来観を反映させる造形となり、webを中心とした「フラット・デザイン」を確立させた。
これは、持てる最大限の技量で再現性を追求したがゆえ、その比喩性によりかえって理解が複雑となる写実絵画的なベクトルに対し、描画技量を必要な一定値に抑え込むことで、端的に概念を訴える抽象絵画の発展にも近しい。
ところで、「フラット・デザイン」にはもう飽き飽きした、という本音もあるだろう。
「フラット・デザイン」は、スマートフォンの普及に伴いwebおよびUIデザインの主軸となった。アイコニックなイラストレーションは、直感的で分かりやすいユーザー体験(UX)を引き出しやすくするため、急速に需要が増したが、IllustratorやPhotoshop、それらに類似したデザインツールが一般化したこともトレンド形成の要因として大きいと考える。
「フラット・デザイン」のイラストレーションの根幹となる形態の抽象化は、ある種の法則性にもとづけば複雑なイラストレーションの描画よりも明らかに容易であり、またUIデザインも、すべてのバリエーションが、グラフィック分野におけるコンポジションやグリッドにもとづいたレイアウトの法則に還元されてしまう。
「フラット・デザイン」の台頭は、高度な概念形成のプロセスを学習せずとも、なんとなく絵の具をぶちまけたり、適当に線を引いて色で塗り分ければ見た目の上だけは抽象絵画っぽいものができてしまうことと似ている。しかし、そのような「それっぽい」抽象絵画の中で鑑賞に耐えうる強度を持つものが数多くはないことと同様に、グラフィックの分野におけるトレンドは、いくつかの要点を踏まえれば量産することができる「フラットさ」を見放し始め、緻密かつ複雑なものに一定の支持が集まる。広告分野で依然として精彩な写真・動画を多用することや、もはや画像が現実を超えるものになろうともアートマーケットでは再現性を追求した写実や具象絵画の方が抽象絵画よりも人気があるように、複雑さはその技術への信頼感により、安定した訴求効果を持つことがうかがえる。
デジタルイラストレーションも、形態のデフォルメや簡略化は行われるが、塗りは透明レイヤーを何層にも重ねる、または「厚塗り」と呼ばれる、不透明色でタッチを活かした技法で描くなど、より複雑化し技巧的なものの方が、トレンドに左右されない安定的な需要を保つ。また、紙媒体では行いにくかった滑らかで可変性に富むカラーグラデーションも相まって一層の複雑化を見せる。
この傾向は、グラフィックにおけるデザインツールの一般化への反動と取れる。同様に、webデザインでも簡略化や単純化に逆行し、複雑化は必至である。
当初、webデザインにおけるレイアウトは平面的なX、Yの値のみであったが、奥行きを表すZが加わり、多層的なレイアウトや視覚体験を生じさせることが可能となっている。また、webによるUI・UXデザインがそもそも情報工学分野と直結したものであるため、複雑化や高度化は、技術をより高度化させ複雑な構造の構築に価値を置くエンジニアの心理と無関係ではない。
これらの要因で、より没入感のあるUXを引き出すために、平面(フラット)からその奥行き(パースペクティブ)へ、という価値観が重要な指標となる。
「フラットな」イラストレーションとグリッドの組み合わせによる「フラット・デザイン」は、模倣が容易である点と、webデザインの発展、インターネット上でのシェアリングコミュニティといった時代感覚も伴って急速にトレンドとなったが、その一般化の反動として、非フラット化と非グリッド化、言わば奥行き感と無重力感へと潮流が移行し始めている。
平面性と図法による空間性が混在する「アイソメトリック・イラストレーション」のトレンドは、これら移行期の変化の一端と見なせるだろう。
奥行きがあるということは、視覚的に立体感を伴っていることであるのだが、このような型通りの解釈だけではない。
物事を明瞭に描き表すイラストレーションは、ユーザーの理解を促進させる。しかし、今日、製品やサービスの価値がもっとも明瞭で分かりやすいから商品が売れる...とは限らないように、明瞭で理解しやすいイラストレーションが価値が高いのかとは言えない。今日の大量の情報の中では、数秒程度で意図が分かる理解しやすさだけでは差別化ができず、分かりやすいインパクトを持ちながらも、ユーザーを製品やサービスの持つ世界観へ導き、深い没入感を与えて共感させるといった、視覚的な奥行き以上に体験的な奥行きを持ったイラストレーションを手がけられることの方がクリエイターとして競争力が高い。図法をはじめさまざまな手法による空間表現がなされていることは、このような共感を高める手法のひとつである。
普遍的な価値から同時代的な発信力やコンテクストへと、ファインアートにおける重点が概念的な意味での「奥行き」へと移行して久しく、またデジタルをキャンバスとする絵画の事例も珍しいものではなくなったが、そのうえで、イラストレーションが「理解から共感(という奥行き)」へ転換を果たそうとしていることは、絵画とイラストレーションの境界がもはや意味をなさないことを示している。
少し視点を変え、平面において空間を表現する図法の変遷を考えてみる。
古代の洞窟壁画には、図法的な空間表現はなされていないものの、モチーフの大小といった伝えたい事柄の優先順位によって形態を差別化する手法が取られている。これは、古代エジプトの壁画に引き継がれ、また初期キリスト教の絵画(ビザンティン美術)でも、その人物の配置に厳格な法則性が用いられていた(余談だが、ビザンティン美術で多く見られるモザイク壁画は、まさに「ドット絵」である)。このように、伝達手法として、遠近法に関係なく、意図に応じて『モチーフの大小を操作する』ことや『配置のルール』という法則性がまずは確立された。日本でも同様に、仏教画における曼荼羅(まんだら)は、情景を描写した絵画的なものというより、宗教観念を表す概念図に近い。
デザインにおけるテクニックであるタイポグラフィでも、重要とされる文字情報を大きく、また装飾的にするなど、同様の規則性が見て取れ、これら平面的なレイアウトの法則は、紀元前の洞窟壁画から長い年月を通し、抽出された概念を伝達しやすくする用法として確立、定着されてきたことがうかがえる。
しかしこの平面的な概念図といった図画の用法から、情景や物語性の描写が必要となるにつれ、透視図法の活用といった遠近法による空間表現が発達していく。ブリューゲル《バベルの塔》は、緻密かつ大胆に、透視図法と『モチーフの大小を操作する』ことを組み合わせながら、神話上の架空の塔の壮大さを、現実の視覚に置き換え伝達できるよう絵画空間を構築している。
日本ではこのような遠近法がさほど体系化されてはこなかったが、平安期に中国の影響を脱した日本独自の様式として「大和絵(やまとえ)」が確立し、斜投影図法に似た方式が用いられた宮廷絵図や合戦絵図が描かれている。この空間を表す方式は長らく江戸時代中頃まで続くが、浮世絵による図案の定型化や、後の西洋絵画による透視図法の影響と混交し今日に至っている。
「アイソメトリック・イラストレーション」は、その描法が一般化され確立している以上、ただそれを描けるのみでは「フラット・デザイン」同様に表現性に乏しく、デザイナーまたはイラストレーターの特性としづらい。しかし、「アイソメトリック・イラストレーション」へと繋がる図法の理論化をたどると、デジタルイラストレーションのこれから数年の行方を少しだけ想像できる。
ひとつは、「厚塗り」傾向のさらなる発展によるハイパーリアル、またはアプリケーションの高度化による3Dグラフィックのより一層の台頭で、これは特に今日のゲーム業界のグラフィックの様相から容易に想像がつくだろう。だが、これは媒体が進化すればその度に更新されるもので、トレンドといった類のことではなく必然的に起きることである。
次に、あえて一切の空間性を排除する、すなわちフラットな描画手法からさらに要素を排除した、線描のみによる手法である。線は静的な要素に見えて、実際には面(塗り)よりも平面の中で位置を持ちにくい動的な要素(点の連続)である。空間性を排除する、としながらも、空間を自在に動く点の連続である線は、無重力感を高める。線という簡易でプリミティブな手法と無機質な平面性は、平面における空間的表現に新しさをもたらすだろう。
そして第3の方向性として、抽象絵画以降に「新しい具象絵画(New Painting / Bad Painting / 新表現主義)」が生まれていったことにならいつつ、「ゆるさ」や「手触り」といったキーワードによる、描法の意図的な幼稚化や、情動的な手描きスタイルが派生的に発展するだろう。また、特定の時代を彷彿とさせる懐古主義的な描法(ヴィンテージ感)や特定のスタイルを踏襲する描法(アフリカンやストリートなどのローカリティ)といった、過去の事例を再解釈する手法も頻発すると考えられる。
DESIGN TIPS
皆川 俊平 Shumpei Minagawa
ー どんな大学生活ですか?
ほんとに私だけなんにも考えていないなーって思っちゃいます。
大学に入る時も、デザイナーになりたいとか、そういう強い動機はなくて、なんとなく楽しそう、くらいの軽い気持ちでしかなかったです。
4年生になった今も、卒業できるか大丈夫かな、とかばかりで、将来の目標に向かって一生懸命、みたいな感覚が私はあまりないのに、他の子はちゃんとした目標を立てているのを聞いて反省することがあります。
だから、自分はともかくとして、普段はみんな楽しんでいるだけに見えても、中身はちゃんとした子が多い、という印象ですね。
ー 将来の夢や、卒業後の目標とかはありますか?
それ、すごく悩むんです。あまり決まってないかも。
欲を言えば、芸能関係のお仕事をさせていただいてきたので、それに近いことができるのが理想ですけど。
ただ、自分が出演して、みたいなことだけではなくて、漠然とですが、そういうお仕事をする中で、いろいろな人と一緒につくる現場はもちろん楽しいけど、企画の仕事にも興味があったので、すごく迷うことがいっぱいあります。
だから、できるかどうか、ではなく、やりたいことはとりあえずぜんぶやってみよう、と思うようにしています。
ー あなたにとって、八戸ってどんなところですか?
お仕事で東京に行ったりして、それから八戸に戻ると、なんか「帰ってきた」という感じでホッとすることがけっこうあるんで、やっぱり「地元!」みたいな感じです。
若い子が都会に憧れるのは普通にあることだと思うんで、私も東京に行くと楽しくて帰りたくないって思いますけど、八戸に帰って大学に行くとなんだかすごく安心しちゃう自分もいて、私、けっこう八戸が好きというか、東北の子なんだな、って再発見します。
だから、私にとっての八戸って、そういう当たり前をもう一回 気付かせてくれる場所なんだ、と思っています。
それ以外にもいろいろあって、おいしいものも多いし… ひとことでは表せないですね。
Cover Girl
赤石 美友 Miyu Akaishi